教育についての戯言

アメリカで教育について学ぶ学生です。

教育政策におけるEBPMについての私見

教育政策はエビデンスに基づかないものが多い。だから、EBPMを導入すべきだ。こういった指摘は枚挙にいとまがない。

 

一方で、教育政策側の言い訳は、以下の2点に終始する。

まず、教育の目的は何であるか、一つに定めることは難しいというものである。例えば、特定の政策や指導法(たとえば、少人数学級や習熟度別授業)がどういう効果をもたらすのか、エビデンスに基づく議論をすべきだとする。この際、エビデンスとしてよく示されるのは、学力に関するデータや、卒業率・進学率に関するデータであろう。しかし、こうした状況に違和感を持つ教育現場の声も聞かれるであろう。教育は学力をただ上げれば良いというものではないのではないか。もっと何か目に見えないような子供の能力・スキルを身につけることだって重要ではないか。そういった類のものである。

また、もう一つは、仮に目的(結果変数)が定まったとして、実験的な政策を行うことは子供に悪影響をもたらすのではないかというものである。これは、RCTなどのように、政策をランダムに割り当てた特定の生徒にのみ適用させ、適用しなかった生徒との差を見ることにより、エビデンスを調べようというものに顕著な批判であろう。一部の生徒にのみある政策を実行することは不公平ではないか、また、ある政策がどのような効果をもたらすか不明瞭な段階で子供を実験に使うのはけしからんのではないか。そういった声である。

 

そうは言いつつも、特に公的資金を投入する公教育においては、税金の効果的・効率的な投入は至上命題であるし、子供の限られた時間というリソース、教員の働き方改革といった現状を鑑みれば、エビデンスに基づいて真に効果のあるものだけに限って、政策を実行していこうという方向性は大切なものである。そして、戸田市などを筆頭に教育に関するデータベースを構築し、政策に生かしていこうという動きが少しずつ前に進み始めている。

 

EPBMに関して言えば、日本より先を走っている国としてしばしば挙げられるのはアメリカであろう。アメリカで教育政策について学ぶ中で、エビデンスについて以下の知見を得たので、簡単に紹介したい。

 

エビデンスは絶対的なものではない

EBPM推進論者の皆様には早速水を差すようなことを言って恐縮であるが、特定の地域で特定の生徒を対象に特定の政策に関するエビデンスを得たからと言って、残念ながらそのエビデンスは限定的な意味しか持ち得ない。他の地域で行った際に同様の成果が挙げられるのかは不明だし、そもそも同じ地域でも、対象となる生徒が変わったり、政策を実行する先生や学校が変われば、十分な効果を持つのかどうかはわからない。エビデンスには常に外的妥当性という論点がついて回るのだ。

実際、例えばチャータースクールという制度を例にとってみれば、チャータースクールが成果を上げたとしている地域もあれば、チャータースクールは効果を上げられなかったとしている地域もあり、むしろ悪影響を与えているとさえ主張するエビデンスもあるのである(例:The Evaluation of Charter School Impacts: Final Report)。

つまり、この政策には効果があるとエビデンスを掲げている識者と、この政策には効果がない・マイナスの効果があるというエビデンスを掲げる識者が意見を戦わせることになるのだ。

エビデンスがあれば政策がスムーズに進むというのは残念ながら幻想のようである。

 

政策立案より政策評価が重要

上記の議論を前提にすれば、エビデンスに基づく「政策立案」というのは絶対的なものではないことがわかる。A地域で成果を上げたこの政策を、そのエビデンスをもとにB地域で実行しようとしても、不確実性が伴うのである。また、上述のチャータースクールの例のように、C地域ではマイナスの効果がありましたと主張する人も出てくるかもしれない。

そうだとすると、「政策立案」段階のみならず、政策を実行した上で、適切に政策評価を行う枠組みをしっかりと実現していくことが必要なのではないだろうか。当たり前のことだが、B地域でその政策がうまくいくかどうかは、A地域のエビデンスでもC地域でのエビデンスでもなく、B地域のエビデンスが最も信頼できるのである。政策を実行して数年のスパンで可能な限り定量的に政策評価を行い、それに基づいて政策の継続・打ち切り・修正を議論できる仕組みが必要である。

残念ながら現状はそうなっていないと言えよう。その理由は大きく3つあり、一つは単純な能力・リソースの問題である。政策評価定量的に行うためには、当然立案時点で綿密に設計を行う必要があるが、教育行政官の能力・時間的リソースの問題が立ちはだかる。また、もう一つは、一度世に放たれた政策には、大なり小なり利益を享受するアクターが発生するため、彼らが現状維持の大きな政治的圧力をかけることだ。最後に、政治・行政の無謬性である。政治・行政が一度自信を持って実行した政策について、その後に「効果がありませんでした。すみません」といって簡単に引き下げることはなかなか難しい。大臣や政治家のメンツの問題も関わってくるだろう。こうした課題を解決することは簡単なことではないが、EBPMの議論を行う中で、ここまで射程を広げ、関係者との議論を重ねながら、理解を得ていくことが求められよう。

 

国レベルではなく地域レベルのエビデンス

また、もう一つの示唆は、「国レベル」ではなく、「地域レベル」のエビデンスが重要であるということである。国レベルで行う政策の多くは、各自治体での解釈・工夫・適応を経て、現場で実践されるのであり、国レベルの平均点で見るエビデンスの価値は弱まってしまうだろう。地域レベルでどのような効果を生んでいるのかをしっかり吟味していくことが重要であり、そのために各自治体の教育委員会における人的リソースをどう確保していくか、検討を早急に行うべきではないか。